目に見えぬ歪み

  九 話

 

「お前ひとりで、どれほどの時間稼ぎが出来る!?」
 行きなさい、と背を押された。
 密書を盗み出すことに成功し、里へ戻ろうとしたところだった。現われた敵は、上忍クラスが三人。優秀と言われようと、所詮は中忍であるイルカが残ったところで、確かに大した足止めにはならないだろう。
 サツキに押し付けられた密書を懐に入れ、仕方なくイルカは命令に従った。何より優先させるべきは、任務の遂行。それが忍びだ。
 背後で、木々がざわめいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連絡鳥が空を行く。それが視界から消えるまで見送ると、イルカは背後の木の幹に沿って、ずるずると崩れ落ちた。
 血の海のような、その場に。
 途端、噎せ返るような匂いに込み上げてくるものがあって、木陰へ這いずって行きそこへ吐いた。気持ちが悪い。苦しい。涙さえ滲ませて、胃液を吐く。
 気持ちが悪いのは、血の匂いの所為ばかりではなかった。
 追っ手の一人に追いつかれたのは、いつだったか。クナイを抜き、応戦した。相手が手傷を負っていたこともあり―――もちろんサツキにやられたのだろう―――イルカもかなり健闘した。
 しかし、手負いとはいえやはり上忍。徐々に押され始めていった。イルカがサツキの安否に気を取られていた所為もあるだろう。
 木に背中がぶつかり、いよいよ追い詰められたその時、イルカの前に飛び込んできた影。
 我に返った時には、敵の忍びの首は胴から離れて転がり、イルカを背に庇った上官は血を吐きながら倒れ込んでいったのだった。
 地面に散らばる、長い栗色の髪。血にまみれ、微笑みながら、彼は目を閉じた。

”――――……きだった、ずっと……”

「ウ……ッ」
 喉元を押さえ、呻く。
 何故。

”あの、頃から。君のことが好きだったんだ、ずっと……だから………”

『だから』何だと言うのだ。そんなこと知らない。知りたくなどなかった。ボロボロと零れる涙は、苦しみでも、まして悲しみでもなかった。
 死の、間際に。最期に遺す言葉が、何故それだったのだろう。イルカにとっては忘れたい、忌まわしい過去のただ一度のことを、わざわざ掘り返してまで、今更何故。
 イルカはサツキの遺体を放置したまま、ふらつく足を無理矢理立たせ、歩き出した。どうせすぐに処理班がやって来る。敵は全滅しているのだし、周りにそれらしい気配もないから、問題はあるまい。
 ――――カカシ先生……。
 いま、いちばん会いたくて、会いたくないひとの名を呟く。
 サツキの想いが、その強い執着が、イルカを縛る。重くて苦しくて、息が詰まりそうなそれ。
 庇われて、好きと告げられて。本来なら彼を悼んで涙を流し、ありがとうとかごめんなさいとか、そんな言葉を返さねばならないところだろうか。
 だがイルカがその言葉を耳にしたとき、とっさに感じたのは。

 ――――気持ち悪い。

 まるで枷を着けられたようだ。胸が重く沈む。
 君を守りたかった。もう一度会いたかった。多分あの頃に告げられていても、自分の応えは変わらなかっただろう。けれど、ここまで不快には思わなかったかもしれない。
 ―――自分はもう、たったひとりのひとに出会ってしまったから。
 たとえ報われなくても、あのひとにとってはただの性欲処理の道具でも。
 俺が欲しいのはただひとり、あのひとだけ。
 だから。

 ――――――――アナタの心なんて、要らない。

 

 

 

 

 里へ帰り着き、事務的な処理を終えると、まだ日は高かったがイルカはまっすぐ自宅へ帰った。
 五代目が「大丈夫か」と問いかけてきたが、「平気です」と返す際に笑みを見せるだけの余裕もない。ただ早く、独りになりたかった。何も考えず眠ってしまいたかった。眠ることなど出来ないと判っていたけれど。
 着替えもしないまま寝室へ入ってベッドに上り、膝を抱え窓の外を眺める。青空が眩しくて、けれど他に何も見たくなくて、ただぼんやりと外の景色を眺め続けた。いや、眩しいと感じるだけで、実際は空の色も景色も目に入ってはいなかった。
 やがて辺りが闇に包まれても、イルカは身動ぎもせずにいた。途中、暗い室内に怯えるように明かりを点けたが、それだけだった。食事どころか水分さえ一切摂らず、放っておけば何日もそうしていたかもしれない。
 どれほどの時間が経っただろうか。
 控えめに叩かれるドアの音に、イルカの意識がわずかに浮上する。敢えて消していない気配、その主は。

「イルカ、先生……」

 応答がないのを訝しんでか―――イルカもまた気配を消していなかったし、玄関の鍵は開いたままだ―――ここまで上ってきた上忍の躊躇いがちな呼びかけに、イルカはふと笑った。その面に、何の感情の色も映さないまま。

「何しに来たんですか……またセックスがしたいんですか」

 自らの心をも深く傷つける言葉。何があったのかと問われて、ありのままを答えた。見っとも無いと判っていても、感情がコントロールできない。声が震える。次第に、自分が何を言っているのか判らなくなっていった。
 涙に霞んだ目に映るカカシは、ひどく痛そうな表情をしていて、余計に頭の中がぐちゃぐちゃになる。
 抱き締められたときには、思わず彼に縋りついてしまっていた。哀れまれている。でもそれでもいい、いまだけは――――――。
 理解不能な言葉を告げられたのは、その時だった。

「好きです」

 嘘だ、無意識にくちから零れ落ちた否定。
 そんな科白、慰めのために言ってほしくない。セックスがしたいのなら、いつものようにただ命じてくれればいいのに。
 非道い、と思うと同時に絶望した。カカシはきっともう、イルカの気持ちに気づいてしまっているのだ。だからこんなことを言うのだ。だからきっと―――もう二度と触れてはくれないだろう。
 それなのにカカシの腕は、ますます強くイルカを抱いて。
「ごめんね、聞きたくなくても、気持ち悪くても聞いて。――――アナタのことが本当に好きなんです」
 繰り返される言葉に、イルカは眩暈を覚えた。抗う力は、だんだんと弱くなっていく。
 気持ち悪いなんて、カカシに思うわけがない。ずっとずっと、どんなにひどい扱いをされても拒めないほどに焦がれてきたひとなのだ。
 サツキとは違う。他の誰とも違う。その、カカシに想われている。
 信じられない、信じたい。この優しい抱擁に、すべて任せてしまいたい。
 本当に言ってもいいですか。俺を受け入れてくれますか。

 

 

 ―――――――ずっとアナタが好きでした。

 

 

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イルカ先生サイドで。
蒼葉上忍の死に様。いまいち巧く書けませんでしたが。
蒼葉上忍のキャラを考えたときからこういうふうにするつもりだったんで。
しかし相変わらずうだうだしてますね(苦笑)
…次回で終わるかな…?
待っててくれてる方、続き遅くてすみません!!(>_<)
また間が空いちゃうと思うんですが、完結はさせますので…!(当たり前だ)
'05.04.06up


 

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