太陽の堕ちる先

 

 悟空が部屋に戻ると、そこには三蔵しかいなかった。広げられた新聞から顔を上げて、眼鏡越しの視線が投げられる。
「あれ〜? 八戒と悟浄は?」
 きょろきょろと室内を見回す悟空に、再び紙面に目を移しながらの答が返る。
「買い出しに行ってる。明日早いうちにここを発つからな」
 ふーん、と何やら納得したようなしていないような声を発し、悟空は椅子を引いてきて三蔵の前に座った。
 一瞬、鬱陶しそうな表情を向けたものの、三蔵は敢えて何も言わず好きにさせる。
「あの二人って、仲良いよな」
「仲が悪けりゃ三年も一緒にいないだろーよ」
「そっか。そだよな」
 じゃあ自分達はどうなのだろう。七年も一緒にいるのは、何故なのか。
 べたべたくっつくのが『仲が良い』事だとは思わない。現に、八戒と悟浄だってそんな風にしているのを見た事がないのだ。
 傍にいて、自然な相手。悟空にとってはそれが三蔵だ。否、三蔵がいなくては、この世界は悟空にとって何の意味もないものになる。空気のようにそこに在るのが当たり前で、生きていくのに必要なもの。
 三蔵にとってのそれは、一体誰なのだろう?
「……三蔵ってさぁ……」
 俺のこと、好き?
 言い掛けた言葉は、否定されるのが怖くて続けられなくなる。
 代わりに、別の問いを口にした。
「悟浄のこと好き?」
「……何だそれは」
 不機嫌そうに顔を上げた三蔵は、意外なほど近くにあった悟空の真剣な表情に驚いて、僅かに身を引いた。
 好きだの嫌いだの、そんな感情で相手を見たことなどない。そう告げれば、ますます深刻な表情になって、再び問い掛けてくる。
「じゃあ、八戒は……?」
 一瞬、息を飲んだのは、何の所為か。
 すぐには返らない答えに、悟空は何故か込み上げる感情を抑えられなくなった。訳の判らない衝動に、悟空は抗うこと無く従う。伸ばした手が三蔵の腕を捕らえ、引き寄せた。
 派手な音を立てて倒れる椅子。勢いで飛ばされた眼鏡が、床を滑る。
 力任せに倒された痛みに、三蔵が顔を顰めた。
「この……バカ猿! トチ狂ってんじゃねえよ……ッ!」
「狂ってなんかない。三蔵のことが好きなだけだ」
 一方的に言葉を押し付けると、掴んだままの三蔵の腕を床に縫い留め、逃れられない唇を塞いだ。ただ触れるだけの、ぎごちないキス。
 予想もしなかった悟空の行動に、三蔵は一瞬、抵抗を忘れる。
 我に返って塞がれたままの唇をもぎ離すと、射殺さんばかりの眼差しで睨み上げた。
「……三蔵」
「ふざけんな、とっとと退けっ」
「やだ! 八戒はいいのに、俺は駄目なのかよッ!」
 苦しげな表情で訴えられた言葉に、三蔵の瞳が見開かれる。
 もしかしたら、悟浄には知られているかもしれないと思っていた。それでも余計な口出しをしてこなかったから、こちらも平然としていられたのだ。
 だが、悟空が気付いていたなんて、思ってもみなかった――――
 凍り付いたように動かない三蔵の首筋に、悟空の唇が触れる。我に返った三蔵が、悟空の頭を引き剥がそうと手を掛けた。
「やめ……ろっ、悟空っ!」
「やだっ!」
 縋りつくように、三蔵の胸元へ顔を埋める。
「……やだ……やだよ、三蔵…やだ……」
 泣いているかのように震える声。
 三蔵は思わず溜め息を着いた。子供染みた独占欲だと思った。それでも駄々を捏ねる子供を突き放してしまえないのは何故だろう。
 ――――ったく……『嫌だ』はこっちの台詞だろうが。
「この、バカ猿」
 引き剥がそうとしていた頭を逆に抱き寄せ、三蔵は諦めたように目を伏せた。
 いつだって、この子供には勝てないのだ。それはこんな場合であっても同じことで。
 抗っても無駄なら、受け入れてしまうしかないではないか。
「三蔵……っ」
 ぶつかる勢いで重ねられた唇を、三蔵は避けなかった。

 

「……おい……、止せ」
 身に着けているものを全て脱がせようとする悟空に、三蔵が制止の声を掛ける。夕方のまだ明るい室内で裸体を曝すのは、かなり抵抗があった。
「何で? 俺、三蔵の全部、見たい……見せて」
 真剣な表情と声音に、抵抗する気力が失せる。
 同じようなことを行為の最中に言われたことがある。何度も。揶揄うような口調、それと裏腹の、どこか余裕のない深い緑の瞳。
 脳裏に浮かんだそれを打ち消すように、緩く頭を振る。今自分を抱いているのは、アイツではないのだ。
「三蔵……好き」
 囁きと共に降りてくる唇。一生懸命で、真剣で、拙い愛撫。もどかしいような刺激に、三蔵は身を捩る。それでも逃れようとは思わなかった。
 悟空は確かめるように三蔵の肌を辿った。
 どうして三蔵が自分を許す気になったのか、悟空には判らない。これは、八戒を裏切る行為ではないのだろうか。
 三蔵が好きだ。でも、八戒や悟浄のことだって大切に思っている。八戒と三蔵のことを知って、ショックだったけれど、八戒を厭うような気持ちは湧いてこなかった。
 なのにこうして三蔵を抱き締めているのは、そしてその腕を離せないのは、一体どうしてなのだろう。
「三蔵――――」
 ゆっくりと身を沈めていく。
 苦痛に歪む三蔵の表情を、それでも綺麗だと思う。
 三蔵は綺麗だ。何もかもがすべて。

 

 ドアが開く音は、いつになく静かだった。

 

 酷く驚いたような彼の表情は、すぐに苦い笑いに変わる。
「すみません……、お邪魔のようですね」
 抱えていた大きな紙袋をドアの脇に置き、いつもと変わらぬ口調で声を掛ける。
「悟浄は最後の夜だからと言って遊びに行きましたよ。明日の出発の時刻に間に合えば、問題ないですよね」
 動けないでいる二人へ、返事を期待しない、一方的な言葉。言うべきことだけ言うと、そのまま部屋を出ていき掛けて、ふと振り返る。
「悟空、せめてそういうことはベッドの上でして下さい。床だと堅くて、三蔵が可哀相ですよ」
「……八戒っ!」
 思わず悟空が名を呼ぶ。
 振り返った八戒の目は、三蔵を見ていた。だが、その眼差しには少しも責めるような色は混じってはいない。
 いたたまれなくて、三蔵は顔を背ける。八戒の瞳に映る自分が、どんな表情を浮かべていたか――三蔵には判らなかった。
 不意に、小さく笑みを零した八戒が、ドアを閉め、二人の方へと近付いてくる。
 膝を着き、悟空に組み敷かれている三蔵の、乱れた前髪を掻き上げてやる。
「……はっ……か…い?」
「すみません、悟空。そのまま続けて下さい」
「えっ?」
 その言葉に驚いたのは悟空だけではなかった。
 額や瞼にくちづけながら、
「……何だか三蔵、僕に見ていて欲しいみたいなので」
「な……っ!」
 人の悪い笑みを浮かべてそう言う八戒に、三蔵が抗議しようと口を開いた。その唇を八戒の指がそっと辿る。
 たったそれだけの接触にさえ過剰な反応を返す三蔵を、愛しげに見つめる――まるでそこに在る悟空の存在を、忘れてしまったかのように。
 そのまま滑り込んだ指が、口腔内を蹂躙する。苦しげに漏れる三蔵の声に誘われるように、悟空が動き始めた。
「ッ……や…めっ」
 逃れようとする三蔵の両手首を、八戒は一纏めに掴み頭の上で押さえ付ける。噛まれるのを避け、指を引き抜く。
 もしかしたら、声を上げさせたかったのかもしれない。
「このままじゃ辛いでしょう? 悟空も……貴方もね」
 囁かれた言葉に、三蔵は唇を噛み締めた。

 

 上昇していく身体の熱は、体奥を行き来する悟空の所為ばかりではない。
 思考さえ流されていきそうになりながら、三蔵は、感情の窺えない緑の瞳が観察するように自分を見ているのを感じていた。
「……あぁっ……あ……!」
 一度解けてしまった唇は、もはや声を殺すことなど忘れてしまっているようだ。
 見られている――――その事がこれ程熱を煽るものだとは思わなかった。それとも、相手が『  』だからだろうか。
 今、一番口にしたい名前を、しかし三蔵は必死に呑み込む。
 呼んでしまえば、すべて終ってしまうような気がした。この関係を壊したくないなんて、これまで思ってもみなかったのに。
 どちらかを選ぶことも、どちらをも切り捨ててしまうことも――自分にはできないという事を、知ってしまった。
 好きだとか、嫌いだとか。そんな言葉では表わせない感情。
 喘ぎさえも自分のものにしようとするように、悟空の唇が三蔵のそれを覆う。八戒の手が、薄く色付いた肌の上を彷徨う。
 いつの間にか解放されていた両腕は、そのどちらに差し延べられることもなく、床に爪を立てていた。

 

 

 意識を失ってしまった三蔵を、ベッドの上に横たえてやると、八戒は無言のまま部屋を後にした。
「八戒っ!」
 手早く身支度を整えた悟空が慌ててそれを追う。廊下で捕まえ、行為の間中ずっと感じていた疑問をぶつけた。
「……何で怒んねぇの?」
「何故僕が怒るんですか」
 返された言葉には、どこにも棘のようなものは含まれていない。本気で不思議そうな八戒の様子に、悟空は戸惑った。
「だ……だって、八戒と三蔵は……」
 言い掛けて、口ごもる。
 ああ、とようやく悟空の言わんとすることを理解したというように頷いてみせると、八戒は自嘲するような笑みを浮かべた。
 悟浄どころか悟空にまで気付かれていたとは、少し意外だったけれど。
「三蔵が僕のものだったことなんて、一度もないですよ」
 そう、何度この腕に抱いても、三蔵の心まで手に入れることはできなかったのだ。それでも、触れることを許されているだけで、八戒には充分だった。
 その権利が自分だけのものだなんて、思ったこともない。まして、相手が悟空なら。
 否、むしろこうなることを望んでいたのかもしれない。
 悟空のことも大切だから、そして悟空がどれ程三蔵を想っているかを知っているから。自分がその三蔵を汚しているということに、後ろめたさを感じていた。だから、悟空が彼に触れたことで、ホッとした気持ちも確かにあったのだ。
「貴方と僕は、同じ立場なんです。だから僕は貴方を責めたりしません」
 責められるべきなのは、自分のほうかもしれない。多分このバランスを崩すきっかけになったのは、自分が三蔵に延ばす手を止められなかった所為だから。
 どんなに延ばしても、手の届かないあの光が欲しかった。自分だけのものでなくて構わない。抱き締めた身体が、どんなに不確かなものであっても。
「……俺……、三蔵のこと、好きだ」
「僕もですよ」
 どんな汚れても、この想いだけは譲れないから。

 

「振り向いて貰えなくても、自分だけのものにならなくても。あの人が必要なんです」

 

 例えそれが、彼を傷付けることになったとしても――自分も悟空も、もうこの想いを止めることはできないだろう。
 あの光に触れたいと願った瞬間から、二人はとうに共犯者になっていたのだ。

 

 

 



初出・2000年10月29日発行「LOVE OR LUST」。
続きの八三もありますが、それはまたそのうち。
これの三蔵は、八戒を想っているっぽいのですが、
まだ悪あがきして認めていない状態。
…ちょっと長いなぁ。半分に分ければよかったか…まぁいいや(おい)
3Pもどき、と言っていたのですが友人に
「視姦でも3Pですよ」
…と言われてビビッたのを覚えています…(^_^;)


 

 

モドル