穏やかな風
でもまさか、ここまで心の狭い嫌な奴だったなんて――――と、手塚は思わず溜め息を吐いた。 外せない、視線の先。 部員たちに優しい笑顔で指示を与える、副部長の姿があった。 不特定多数にまでこんな感情を抱くようでは、つくづく自分も修業が足りないと思う。何の修業かは、手塚自身よく判っていない。 誰にでも優しい、大石。 そんなことは、それこそ十年も前から知っている。 幼い頃は、優しくて皆に好かれている彼が、自分と特に仲が良いことが嬉しくて、自慢だった。 あの頃は良かった、と思う。他愛ない、けれどもとても大切な言葉を、何の気負いもなく相手に告げることができた。 ”しゅうちゃんがいちばんすき” ”ぼくも、みつくんがいちばんだよ” ずっと一緒にいるのだと、指切りをした。その約束どおり、これまでずっと一緒の時を過ごしてきた。 けれど今はもう、この先もずっと一緒にいようなんて、誓えない。 どんなに手塚がそれを望んでいても、もう、素直にそれを伝えることはできない。 たとえ現在の二人の関係が、幼馴染みや親友という間柄を超えた”恋人同士”という特別なものになっていても。 「手塚。まだ終わらないのか?」 独り物思いに耽っていた手塚は、不意に背後から伸びてきた手に心臓が止まるかというほど驚いた。肩越しに覗き込むようにしながら、大石は書きかけの部誌を指先でトントンと叩く。 「さっきから、全然進んでないようだけど」 耳元に響く、優しくて深い声。 真っ赤になり、慌てて周りを見回す。が、既にこの部室内に残っているのは大石と手塚の二人だけだった。 一体どれくらいの間ぼんやりしていたのか。手塚は恥ずかしくなった。 「珍しいな、お前がボーッとしてるなんて。何かあった?」 「すまん。すぐ終わらせる」 「………気にしなくていいけど………」 鍵当番の大石を待たせてしまっていることに今更気付き、急いで止まっていた左手を再び動かす。 手塚の常にない態度の理由を知りたかった大石は、そんな手塚に苦笑を漏らした。 ペンを走らせる音が、静かな室内に響く。利き手なのだから当然だけれど、左手で器用に文字を綴っていく様子が、右利きの大石にはいつも何となく不思議に感じられる。手塚の、綺麗な長い指。愛おしくて、幾度も口付けた。 大石は、手塚の正面に移動すると、椅子を引いて腰を下ろし、テーブルに頬杖を突いた。見つめる視線に、手塚の肩が僅かに緊張して強張ったのに気付き、微笑む。 その時。 「良かった、まだいたぁ!!」 勢いよくドアが開いて、菊丸が飛び込んできた。 「英二。どうしたんだ一体」 「財布財布、財布忘れちゃったー! もー、大石たち帰っちゃってたらどーしよーかと思って焦ったよー!」 立ち上がった大石に応えながら、ロッカーを漁り、あったー!と目的の物を高く掲げて見せる。 「そそっかしいなあ、英二は」 「うるさいにゃ、大石っ」 笑いながら頭を撫でると、本気ではない拳が飛んでくる。じゃれるように笑い合うと、菊丸は手塚にも挨拶を寄越し、じゃあねーん、と手を振って帰って行った。 「……騒がしい奴」 クスクスと笑う大石の呟きは、とても優しくて。 手塚は最後の文字を書き殴ると、乱暴に冊子を閉じた。 「手塚?」 驚いている声は、変わらず穏やかであったけれど、今の手塚にはそれさえも痛い。 とても、嫌な気分だった。 素直で、己の感情を隠さない菊丸と、自身とを比べ合わせて。 ―――どう考えたって、菊丸のほうが魅力的であると、そう思ってしまって。 「………帰る」 「えっ……ま、待てよ、手塚っ!」 「鍵を置いて………菊丸と先に帰れば良かったのに」 部誌を仕舞い、バッグを手にさっさと帰ろうとしている手塚を、慌てて追いかけてくる大石に。 思わず、言わなくても良いことまで言ってしまった。 しまったと唇を噛み、チラリと大石を窺うと。 「…………手塚」 どこか呆然としたまま、呟くように名を呼ばれるから。 そんな下らないことを口にしてしまった自分が情けなくて、大石に呆れられるのが怖くて―――思い切り、顔を背けてしまった。 「手塚。……こっち向いてよ」 かけられた声が優しくて、泣きたくなる。この優しさが、自分だけのものではないと知っているから、苦しくなる。 笑い飛ばしてくれた方が、どれほど親切だっただろう。 大石から背を向けて固まっている手塚を、大石はふと笑みを浮かべるとそっと近づき、背中からふわりと抱き締めた。 大袈裟に震え、逃れようとする身体をしっかりと抱き込み、耳元へ唇を寄せる。 「………英二に、妬いたの?」 バカだな、と呟く声には、愛おしさが溢れていて。 「こんなこと、したいと思うのはお前にだけだよ」 手塚の大好きな声が甘く囁き、耳のすぐ下へ唇を触れさせた。 それだけで、身体が熱くなる。 「お、……いし……」 「それに、そんなこと言われたら、俺だって言いたくなっちゃうだろ」 「え………?」 前に回された手が胸元を撫でるように動き、慌てた手塚が身を捩ると、大石はあっさりと手塚を解放して言った。 「……お前があんまり越前に構うから、嫉妬で狂いそうだ、ってね」 その腕を追うように振り向いた手塚は、大石の言葉に真っ赤になった。 向き合う形で、再び抱き寄せられる。 「なぁ、手塚。俺はお前のことが誰よりも一番好きで、いつまでも傍にいたいと思うよ。不安に思うことがあったら、言葉にして欲しい。どんな不安も、俺が消してやりたいから」 それは、手塚の望みでもあった。 今更子供じみた――或いは、女のように――約束を欲しがっていると知られたくなくて、大石が同じ気持ちでいてくれているか自信が持てなくて、それを口にする勇気がなかっただけだ。 言葉が足りない自分を、それでも大石は理解し、受け止めてくれる。 手塚は俯いたまま、大石の制服の肘辺りを、きゅ…と握って、軽く引っ張った。 「………大石………」 「うん」 大石は微笑んで、手塚の唇に己のそれを重ねた。 手塚の求めるものを決して違えない大石。不安に凍り付いていた手塚の心を優しく溶かす暖かな腕は、まるで穏やかな春の風に包み込まれているようで。 手塚はうっとりと目を閉じ、優しい恋人の背にそっと腕を回した。
まんまですが、テーマは「ヤキモチ」。嫉妬。じぇらしー。 |