逆 転
三蔵は、広げた新聞紙の影から、楽しそうにアイロンがけなどしている――――アイロンがけ! 一体どこまで主夫が身に着いているのかこの男は――――八戒を、そっと盗み見た。 気付かれないようにチラリとだけ見たつもりだったのに、八戒は当たり前のように振り向いて、新聞越しの視線を受け止める。ニコリと微笑みかけられ、三蔵は舌打ちして強引に視線を外した。 嫌な男だ、と思う。 貴方に関しては、何かセンサーが働いているのかもしれませんね。 笑いながら、そんなことを言っていた。三蔵のことに関してだけ、悟空に負けないほどの野性の勘を発揮する。 名を呼びかければ、他に何を言うまでもなく三蔵の求めるものを理解し、与えてくれる。旅の始めの頃は都合の良い男だとしか思っていなかったその男を、こんなにも忌々しく思うことになるなんて。 アイロンがけの手を止めて立ち上がった八戒は、ポットを取り、空になっていた三蔵のカップにコーヒーを注いだ。 ――いや、確かにおかわりが欲しいとは思っていたのだが、そうではなくて。 何でそれが判って、肝心なことは判らねーんだっ! どうぞ、と笑顔で手渡されたカップを乱暴に奪い取り、半分ほど一気に飲み干す。程よく冷めたコーヒーは、猫舌の三蔵にはちょうど飲みやすい温度だった。 驚いたように目を瞠り自分を見ている八戒に、どうしようもなく苛立つ。 「っ、お前はっ………」 「……三蔵?」 問うような呼びかけに、唇を噛む。言いたくない。けれど、悔しいけれど三蔵ももう限界だった。 彼に抱かれてから、もう二ヶ月以上が経っていた。 その間、彼はキスさえ仕掛けてこなかった。 「………お前、俺を何だと思ってる」 「? 三蔵は、三蔵でしょう?」 意味を把握し切れていないらしい、八戒は首を傾げながらそう答える。三蔵は八戒の胸倉を掴んで引き寄せると、触れるぎりぎりまで顔を近づけ、間近から睨みつけた。 「―――俺は、ただの”雄”だ」 そのまま、息を呑んだ八戒の唇へ噛み付くように口付けた。 ただの、雄。 それを自覚させたのは、他ならぬ八戒だった。 これまでずっと、三蔵は自分にそんな部分があることを知らないままで生きてきた。そんな余裕もなかった。 初めてこの身に触れたのは、取るに足らぬような小物妖怪たちだった。無論、その中で生き延びた者などいない。四〜五人ほどいたように思うが、気が済んで馬鹿面を曝して呆けているところを全員撃ち殺してやった。 それまでもろくに興味もなかったが、以来行為に対して嫌悪しか感じなくなっていた自分を、彼は包み込み、愛していると囁きかけた。 こんなふうになったのは、お前に抱かれたからなのに。 「ヤメて、下さい」 ゆっくりと手を解かれる。困ったような表情で三蔵を見つめ返して。 拒絶。 一度手に入れてしまえば、最早どうでも良いと言うのだろうか。抱いてみて、こんなはずではなかったと後悔でもしたのだろうか。この程度だったのかと失望して、軽蔑して。 いっそそれならば三蔵のほうだってキッパリと振り切れるのに。 八戒の眼差しは変わらず、三蔵を愛していると告げていた。 納得できるはずがない。 三蔵は衝動のまま、八戒を床に押し倒した。 「三蔵っ……」 悲鳴のような声。何でそこまで嫌がるのだ、と三蔵がいい加減キレかけた時。 「ダメです、僕は貴方を壊したくない……!」 「はあ?」 思いがけない言葉を聞かされ、三蔵は知らず、らしくない呆けたような声を上げた。 壊れる。誰が? 「………貴方に触れると、僕は歯止めが利かなくなる。お願いですから、これ以上僕を煽らないで下さい。きっと今度こそ僕は貴方を壊してしまうから―――」 頬を染め、気まずそうに顔を背けている八戒を、思わずまじまじと眺めてしまう。 しばらくの間の後、我に返った三蔵は、今度こそ本気でブチ切れた。 「っふざけんなっ! 女子供じゃあるまいし、誰がんな簡単に壊れるってんだっ!!」 怒りに任せて怒鳴りつけると、八戒のシャツを掴んで一気に引き裂いた。 「さ、三蔵っ!」 「――てことは、前ん時は手加減してやがったってコトか。随分ナメられたもんだな、俺も」 うろたえる八戒を見下ろし、三蔵は皮肉げに唇の端を吊り上げる。自分を翻弄しておいて、相手は本気ではなかったなんて、これ程屈辱的なことがあるだろうか。 「一人で余裕かましてんじゃねーよ。俺が欲しいなら本気で求めてこいってんだ」 三蔵は八戒の肩口に顔を伏せ、そのままきつく歯を立てた。血が滲む程に噛みついてやっても、まだ足りない気がする。このまま、食い千切ってやろうか。 腹立ち紛れにそんなことを思っていると、噛まれた衝撃に身体を震わせた八戒が、唐突に三蔵の肩を掴み身動きも許さぬというほどにきつく抱き竦めてきた。 あっと言う間に逆転する、二人の位置。 「僕は、……貴方が少しでも嫌だと思うのなら、二度と貴方を抱いたりしません」 どうしますか? と、どこか思い詰めたような表情で問われ、三蔵は目を細めた。 「――――お前、何聞いてやがった?」 脇に突かれた両腕に囲まれながら、三蔵は腕を延ばして八戒の首に回し、引き寄せた。 「俺はただの”雄”だ。良いから、とっとと来い。臆病モンが」 『貴方を愛しています』 だったら、他には何も考えなくて良い。 抱いてくれなんて、んなみっともねーこと俺に言わせんじゃねーよ、バーカ。
(当時のコメント) |