海が結ぶ絲辛うじて戦火を免れたその屋敷には、若き女当主とその夫、そして幾人かの使用人たちがひっそりと暮らしていた。 旧家小坂田の女当主・朋香は、朝目を覚ますとまず夫の着替えの手伝いをする。使用人にさせればよいと思われるかもしれないが、彼が朋香以外を寄せ付けたがらないのだ。 「国光さん。おはようございます。起きられますか? お洋服、ここに置きますよ」 用意しておいた服をベッド脇の台に置き、目を覚ました彼が身を起こすのを助ける。 「着替えが済んだら、朝食を用意してもらいますね。あまり動かないで……、待っててください」 ゆっくりとした動きで寝間着の釦を外す彼にそう声をかけ、朋香は窓辺に立ち、カーテンを開ける。隣接した部屋のカーテンも開けておこうと、そちらへ足を向ける。爽やかな陽射しに、ホッと息をついていると、 「……朋香?」 夫がか細い声で呼んだ。 「朋香、……朋香! 朋香ッ!」 頼りなげな呼び声は次第に悲鳴のようなそれに変わり、朋香は慌てて寝室へ取って返した。 「国光さん。私、ここにいるわ。ちゃんといますから」 「朋香っ……」 溺れた者のように必死でしがみつかれ、朋香はその容赦ない力に漏れそうになるうめきを押し殺し、そっとその背を撫でてやった。 「大丈夫。大丈夫よ……」 朋香の夫である国光は、婿養子として小坂田家にやってきた。脚に障害があり、戦争には召集されていない。が、戦争が彼に齎したのは、恐ろしいまでの絶望。 国光は、小坂田家の奉公人として勤めていた竜崎桜乃という女性と、恋仲にあった。元々、朋香とはいわゆる政略結婚で、互いの間に恋愛感情は一切なかった。傍目にも、国光が桜乃に心を寄せていたのは判ったし、桜乃のほうもそんな彼を受け入れていた。 朋香にとって桜乃は、唯一身近な年の近い者で、とても大切な友人だった。だから、二人が幸せならばそれでいいと思っていたのだ。 だが、不幸にも桜乃は戦に巻き込まれ、命を落とした。以来、国光は心の均衡を崩してしまい、今ではそのすべてを朋香に委ね、頑なに他を見ようとしなくなった。朋香が目の届くところにいないと半狂乱になり、どこにも行くなと幼子のように駄々を捏ね縋りつく。そんな国光を、朋香は放っておくことができず、こうして甲斐甲斐しく世話をしているのだった。 「越前さん。……越前さん、いる? 国光さんの朝食、こちらへ運んできて」 「はい。朋香様」 朋香が自室を出たときから傍についていて、今も部屋の外で控えているであろう使用人に声をかけると、即座に平坦な声が応えた。カツカツと靴音が遠ざかるのを耳に、朋香はまだ震えている国光をぎゅっと抱いた。 越前リョーマ。朋香の側付で、外出の際には運転手も務める使用人だ。学生時代、桜乃と親しかったということで、彼女の死後間もなく彼女の紹介状を手にやってきた。いつも無表情で、何を考えているのか判らない男。けれど仕事はきちんとこなすし、真面目だ。 朋香は、彼のことを気に入っていた。いつか彼が笑顔を見せてくれないかと、密かに願っている。国光の存在があるから、認めるわけにはいかないが、実は一目惚れだったのだ。 ……でも。 「大丈夫よ、国光さん。私は国光さんの傍に、ちゃんといますからね……」 少しずつ落ち着きを取り戻し、震えが治まってきた国光に、朋香はそっと囁いた。
薬で眠っている国光を残し、自室に戻った朋香は、ようやく自分の食事を済ませることができた。 苦痛というわけでもないのだが、やはりこうしてひとりになれる時間は安心する。 大切な友人である桜乃の、大切なひとだ。夫でもある国光の世話をするのは、当然のことだと思っている。それでも、四六時中拘束されるのは息が詰まる。 今日は気晴らしに買い物にでも行こうか、とリョーマを呼びに行こうとしたとき、ノックの音がした。 立っていくと、ドアの前にいたのはリョーマだった。 「あら、越前さん……ちょうど良かった。車、出してほしいのだけど――」 けれど言葉は、伸びてきた彼の腕に遮られた。許可も得ず室内に足を踏み入れてきた彼の背後、音を立ててドアが閉まる。 「え、越前さん?」 「朋香様。好きです」 リョーマの腕が、朋香を壁に押さえつけてくる。動揺を隠せず、朋香は目線を泳がせた。 「あの……、で、でも私、国光さんていう夫が」 「あんな状態のあのひとが、あんたに何をしてくれるっていうんだ。俺なら、あんたを守れる。そんな疲れた表情、させない」 ハッとして顔を押さえる朋香に、リョーマは鋭いまなざしを向けた。 「朋香様」 その響きに、朋香は抗えなかった。リョーマを見上げるように顔を上げ、あ、と思う間もなく唇を塞がれた。 いけないと判っているのに。 そのくちづけを振りほどくこともできず、朋香は目を閉じ、彼を受け入れてしまったのだった。 リョーマの存在は、朋香にとって疲れた心の支えになった。自分でも気づかぬうちに、桜乃の代用品であることを負担に感じていたらしい。生活の大半は相変わらず国光の世話に追われたが、毎日が充実していた。 買い物帰り、よく足を伸ばして海へ行った。ふたりでただ砂浜を歩くだけで、幸せな気持ちになれた。未だ戦争の爪痕を残す町とは違い、どこまでも広い海を見ていると心が凪いでいった。 そして、隣には相変わらず無表情なリョーマがいる。ただ手を繋ぐだけで大して言葉を交わすわけではないのに、朋香は満たされた。もちろん、いつか微笑みかけてほしい気持ちは変わらず持っているけれど。 「……朋香様。そろそろ」 「あ……そうね。帰りましょう、越前さん」 最後に、きゅっと繋いだ手に力をこめて。 リョーマが、朋香にくちづける。 浮かれている、と思う。朋香にとって国光は夫ではあったが恋愛感情はなく、リョーマがはじめての恋だった。その彼に想われ、大っぴらにはできなくともこうして恋人のように肩を並べて歩いて、くちづけを交わして。 国光のことを一時だけでも忘れ、ただの女になれる気がして。 浮かれていた。――――本当に、どうしようもなく。笑わない彼の心を、疑いもしないで。
「苦しめばいい、アイツなんか……。俺から、彼女を奪った、報いだ……!」
「国光さん、ごめんなさい遅くなって。お夕食、持ってきてもらいますね」 「朋香っ!」 薬が切れ、目を覚ましていた国光が、朋香にすがり付いてくる。 「また、越前と出かけていたのか。お前も俺を置いて、どこかへ行ってしまうのか?」 ぎゅうぎゅうと苦しいほど強く抱きすくめられ、そう問われて、朋香は息を呑んだ。 ずっと眠っていて何も知らないとばかり思っていたのに、国光は朋香とリョーマのことを感づいていたのだ。 朋香はいまさらながら、ひどい罪悪感を覚えた。 「ごめんなさい、国光さん。どこへも行かないわ、行かないから……」 少なくとも、桜乃を失った心の傷が癒えるまでは。 このひとにはもう、自分しかいないのだから。 朋香は国光のために、自身の恋を捨てることを決意した。元通り、ただの使用人としてリョーマに接しよう。あの海へも、もう行かない。買い物も、使用人に任せよう。そうして、国光のそばにずっといるのだ。 もう、リョーマとふたりきりでは会わない。 それはとても寂しく、悲しいことだったけれど、国光を見捨てて自分の幸せを優先することなど、朋香にはできなかった。 「朋香様、国光様。夕食、お持ちしました」 ノックと共に、ドアの向こうから声をかけてくるのは、リョーマ。朋香は夫を宥めつつ、それに応じた。 「入って。中に持ってきてください」 失礼します、と断わって入ってきたリョーマは、抱き合うふたりを見て一瞬、動きを止めた。が、すぐに食事を乗せたワゴンを引いてきた。 「ありがとう、越前さん。下がっていいわ」 「…………はい。朋香様」 リョーマは一礼して、部屋を辞した。 「……さ、国光さん。食べましょう。私、ずっとここにいますから。国光さんがおやすみになるまで、いますからね」 朋香にやさしく言われ、ようやく彼女を解放した国光は、もそもそと夕食をとり始めた。 国光が眠ったのを確認し、自室へ向かう朋香の腕を、不意に掴む者があった。 ハッとしてみれば、そこにいたのはリョーマだった。 「どういうつもり。俺にわざわざあんなとこ見せて」 「……ごめんなさい、越前さん。私、やっぱり国光さんを―――」 見捨てられない、と続けようとして、掴まれた腕に走った痛みに声を呑む。リョーマから目を逸らしつつの朋香の言葉に、リョーマはチッと鋭く舌打ちした。 短い間ではあったけれど、穏やかな時間をくれたリョーマの態度の豹変ぶりに怯え、朋香はビクッと身を縮めた。 「桜乃といい、あんたといい――――あんな奴のどこがいいワケ?」 「え、桜乃…って……」 いつも無表情だったリョーマの口元が、嫌な笑いに歪む。 「何も知らないようだから、教えてやるよ。桜乃は、俺の恋人だった。それを、アイツが横から掻っ攫ってったんだ!」 「……!!」 朋香は驚愕のあまりただ目を瞠るしかなかった。 国光と桜乃は、互いに想いあう仲だと思っていたのに、桜乃に他に恋人がいたなんて。そしてそれがリョーマだったなんて。 「越前さん。それじゃあ、私を好きだと言ってくれたのは……」 「嘘だよ。あんたをアイツから奪ってやれば、アイツがさぞ苦しむだろうと思ったのさ」 リョーマの声に躊躇いはない。朋香は絶望に目の前が真っ暗になるのを感じた。 騙された、という思いよりも勝ったのは、リョーマに対して申し訳ないという気持ち。彼の存在も知らず、国光と桜乃が結ばれればいいなどと考えていた。リョーマは、とても傷つき、ずっと苦しんでいたのだろうに。 朋香はリョーマの腕を振りほどき、自室へと駆け込んだ。 笑ってほしいと思っていた。けれどあんな笑みを見たかったのではない。 「……私が、いなかったら……」 あるいはリョーマは、復讐の道具を失い、国光を憎む気持ちをなくすだろうか。 けれど、国光を放ってはおけない。国光には、自分しかいないのだから―――― 翌日。 ひとりで出かけようと玄関に向かっていたとき、呼び鈴が鳴った。すぐ近くにいた朋香が迎えると、客人は意外な名を名乗り、朋香を驚愕させた。
「ちょっと、そこのおチビ。国光の部屋はどこ?」 不意にそう声をかけられて、リョーマは警戒心も露わに睨み付けた。 「何者だ、あんた。どうやって入った?」 「お嬢さんに入れてもらったんだよ。俺、客ね。判ったら国光の部屋に案内してよ」 突然現れ、決して小柄ではないリョーマをおチビ呼ばわりした大柄な男は、懐こい表情で頼んだ。 朋香が許可したのならと、仕方なく男を案内する。と、男は部屋に着くなりノックもせずいきなりドアを開け放った。 「国光、ただいま!」 ベッドに起き上がっていた国光は虚ろな目でドアを振り返り、男の姿を見止めるなりその目をおおきく見開いた。そこに正気の色が宿るのを、リョーマは見た。 「……英、二……英二!?」 「国光、俺、帰ってきたよ! ちゃんと生きて帰ってきたんだよ!」 「本当に……、本当に本物なのか? お前は死んだと、だから……俺は……っ」 「国光っ!」 唇を戦慄かせ、ポロポロと涙を零す国光を、英二と呼ばれた男が抱き締める。 どう見ても単なる友人とは思えぬふたりの様子を、リョーマはただ呆然と見つめていた。 「……あんた一体、何者?」 「俺は、菊丸英二。国光の恋人」 「な……!?」 思いもかけぬ言葉に愕然とするリョーマに、すっかり本来の彼に戻ったらしい国光が説明をしてくれた。 ふたりが出会ったのは、桜乃を介してだったという。やがてふたりは恋仲になったが、英二は戦争に招集され、離れ離れになった。その数ヵ月後、英二の戦死の報せが国光の元へ届いたのだ。 愛する人の死を受け入れられず、国光は記憶が混乱し、共通の友人である桜乃に縋ってしまった。そして桜乃も、そんな国光を放ってはおけず、リョーマに別れを告げ国光の傍にあることを選んだ。 「―――だが、彼女はずっとお前を想っていたよ。彼女と俺の間に深い関係はなかった。俺も、愛しているのは英二だけだったから……」 国光は結果的にリョーマから桜乃を奪ってしまったことを申し訳なく思っていると、深く頭を垂れた。 リョーマは思わず、拳を握った。 「そんな……、じゃあ、俺の気持ちは……」 桜乃の心を奪ったと国光を憎む気持ちは、ただの逆恨みだったというのか。では、何のために自分は朋香を傷つけてまで――――。 「…………朋香様、は」 「あ、そういえばお嬢さん、俺の話ろくに聞かないで出てったよ。国光のこと頼むって、俺に言ってた」 英二の言葉を聞き、リョーマは弾かれたように駆け出した。朋香の部屋へいくと、果たして、机の上には一枚の便箋が。 『越前さんへ。国光さんをこれ以上憎まないであげて』 たったそれだけの、置手紙。まさか、とリョーマは青褪めた。 朋香は、国光を放り出せない。リョーマを間違いなく想っていたくせに、彼を選んだくらいだ。だが、英二が――国光を支えられる存在があると知ったなら。 自分を騙していたのだと知っても、リョーマを責めなかった朋香。心根の優しい彼女は、リョーマが国光を憎んでいると知って、胸を痛めたことだろう。もしかしたら、リョーマを想ってくれていた彼女は、深く傷つき、いっそ自身を消してしまおうと――― 「そんなこと、させるか!」 リョーマは便箋を握りつぶすと、屋敷を飛び出した。車を出し、あの海へ向かう。朋香が行く先など、そこしかないと思った。 桜乃を失った上に、朋香までも失いたくない。いや違う。朋香だから、失いたくないのだ。今になってようやく知った、自身の心。 海岸に車を停め、ふたりで歩いた砂浜を走りながら声を張り上げる。 「朋香様!」 しばらく走ったところで、波の向こうへ進んでいく朋香らしい後ろ姿を見つけた。リョーマが息を詰め見守る前で、静かにその姿が波間に消える。 「――――朋香ッ!!」 リョーマは上着を脱ぎ捨て、波をかきわけ彼女を追った。海中に潜ると、もがく気力もなくゆっくりと沈んでいく彼女がいた。 リョーマは必死に手を伸ばし、辛うじて彼女の身体を捕らえた。 海面に顔を出す。服が重くいうことを聞かない、それでも何とかぐったりとした彼女を抱いて浜辺に泳ぎ着いた。 横たえさせた朋香の顔色は青を通り越して白くなっており、息をしていなかった。 リョーマは朋香の頭の下に上着を丸めて入れ、顎を反らさせて気道を確保し、鼻を摘んで唇を重ねた。直接息を吹き込み、カウントを取る。それを繰り返す。 何度目かの人工呼吸のあと、朋香が軽く咳き込み、うっすらと目を開けた。 「……ぁ……、越…ぜ、さ……」 「朋香!!」 安堵のあまり、全身の力が抜ける。リョーマは震える手を伸ばし、朋香を抱きすくめた。 「どう、して。私……」 「よかった。よかった……! あんたを愛してる。愛してる。だから、死ぬなっ……朋香!」 「私……、代わりは嫌なの。桜乃の代わりにあなたに愛されるのは嫌……!」 「代わりなんかじゃない。朋香を愛してるんだ。国光様のことはもう誤解だと判った。拘る理由はもうなくなったんだ。桜乃のことは愛してた。でも今は、あんただけだ!」 駄々を捏ねる子供のように頭を振る朋香を、リョーマはきつく抱き、言い募った。 朋香の瞳に、涙が溢れる。 「信じていいの……リョーマ」 「信じてよ。ヒドイコトした俺を許さなくていいから、俺の気持ちを信じてよ」 「リョーマッ!」 朋香がリョーマの背に腕をまわし、きつく抱き返してくる。 それが、彼女のこたえだった。
その後。 小坂田の屋敷には、しあわせな恋人と幾人かの使用人たちが、ひっそりと暮らしていた。 想いを重ね、笑み交し合う、二組の恋人たちが。
おわり
上沼みどり様からリクエストいただきました。 またもweb拍手のメッセージから頂いたんですが、 これがまた細かく、そして難しい!!(死) 必死で考えましたが、これ以上のものは出てきませんでした。 今後リクエストの機会がありましたら、パラレルはご勘弁いただきたく。 リョーマでも朋ちゃんでもない、ただのオリジナル書いてる気分でしたよ…orz 長くなった割に、端折りまくりだし…ううう。(泣) せめて前後編にすればよかった…でもリクで続きモノは嫌だったんです(T_T) みどり様、リクありがとうございました。 ホント、こんなのでスミマセン!(汗)頑張った気持ちは認めてくださいー とりあえずどうぞお納めくださいませm(__)m '07.06.05up
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