大切なもの
不意にそんな言葉が聞こえてきて、手塚は思わず着替えの手を止めて固まってしまった。 無邪気にそんなことを訊いているのは、もちろん菊丸だ。どうやら、不二がキス経験者だという話から、手当たり次第に同じ質問をして回っていたらしい。手塚の耳には届いていなかったが、これまでに"YES"と答えていたのは不二とリョーマだけだった。 しかし、 「あるよ」 大石の答えに、積極的にその会話に参加していなかった者までもが過剰な反応を返した。 「うっそーっ! 大石もしたことあんのーっ? 誰と、いつ!?」 「誰とかは、秘密。幼稚園の頃の話だよ」 大袈裟だな、と大石は笑った。意外な話に、菊丸と桃城が詳しい説明を求めるが、大石はもう答えなかった。 手塚は、先とは違う意味で固まったまま動けない。 手塚が大石からキスを貰ったのは、去年の秋だった。肘の故障で動揺していた手塚を落ち着かせるための、優しいキス。それがきっかけとなって以来、幾度となく唇を合わせている。 けれど。 ――――幼稚園の頃、って……誰と……? 幼馴染みの大石とは、もう十年近い付き合いだ。その頃はもう、出会っていたと思う。 でも当時、自分よりも彼と親しかった存在などなかったはずだ。それが、一体いつの間にそんな……。 自分の思考に捕われていた手塚は、同じ質問をしてきた菊丸を思い切り無視してしまったことに全く気付かなかった。 「手塚。どうした? さっきから変だぞ?」 大石の部屋で課題を終わらせ、寛いでいる時に大石がそう切り出した。 手塚はチラリと大石を窺った後、拗ねたように視線を逸らせてしまう。らしくない態度に、大石は首を傾げた。 手塚の様子がおかしいということに気付いたのは、帰り際に部室で騒いでいた時だ。ぼんやりしている手塚に無視された形になった菊丸が文句を言っているのにも気付いていないふうで、何やら深刻な表情で考え事をしているみたいだった。 ――――俺、何かしたかな? そう思って記憶を辿ってみても、心当たりはない。口下手な彼を煩わせずに何もかも察してやれればいいのだけれど、さすがに大石もそこまでは無理だ。逸らされた視線を捕らえようと、顔を近づける。 その行為に、特に深い意味はなかった。 だが、手塚はひどく傷ついた表情を浮かべ、顔を背けてしまった。 「手塚……?」 驚いて名を呼ぶと、手塚はふるふると小さく首を横に振った。 「何でもない」 「何でもないことないだろ! 俺がお前に何かしたなら言ってくれ。お前にそんな顔、いつまでもさせていたくない」 力ない否定をキッパリと否定し返されて、手塚は言葉を詰まらせた。 「………だっ、て………」 叱られた子供のように、声が小さくなる。そもそも、そんな何年も前のことに嫉妬している自分が、既に情けないしみっともないと思う。今の大石は、こんなに真摯に手塚を想ってくれているのに。 しかし、大石はそこに至って、手塚の態度が何を原因としているのか気付いてしまったらしい。 「………もしかして、俺が英二に言ったこと、気にしてる?」 「!」 弾かれたように大石を振り返ったのが答えになってしまう。 大石はひとつ溜め息をついた。 「勝手にあんなこと言ったのは悪かったよ。でも別に、お前の名前だした訳じゃないし、誰もそんなこと疑ったりしないよ。……お前が嫌ならこれから気をつけるから、もう機嫌直して――――」 「……………………え?」 たっぷり一分ほど、間があった。 大石の、微妙に手塚の思いとはずれた答えの意味に気付いた手塚は、これ以上ないほど真っ赤になってしまった。 ――――その相手って……俺、なのか……!? 覚えてない。全然全く記憶にない。 混乱する手塚の反応に、大石もようやく正確に事情を把握する。 するなり、思い切り吹き出した。 「てっ……手塚、忘れてたのか? もしかして俺が他の奴とキスしたと思って、ヤキモチ妬いてた?」 失礼にも涙が滲む程爆笑した大石は、あまりのことに怒りを覚えることもできずにいる手塚を引き寄せ、抱き締めた。 「大石っ……」 「ひどいな、忘れるなんて……お前からしてくれたのに」 真っ赤に染まっている耳元にそう囁かれ、手塚は必死で記憶の糸を手繰る。そして。 「……あ………っ」 思わず声が上がる。 確かそれは出会って二年目の、ちょうど今頃。 "しゅうちゃん、しってる?" 切り出したのは、確かに自分の方で。 "いちばんのひとにこうすると、ずっといっしょにいられるんだって……" そして――――ちゅっと、微かに触れるだけの淡いキス。 「思い出した? 『みつくん』」 クスクス笑いながら、耳に触れるほど唇を寄せて、囁きを吹き込む。思わず首を竦め、大石の肩に手をかける。 「……その呼び方、止めろ」 「可愛かったなぁ、あの時の『みつくん』は」 「大石っ」 恥ずかしさに逃れようとする手塚を抱き締めたまま、大石はからかうのを止めない。いい加減、腹を立てた手塚が強引に振り解こうと肩にかけた手に力を込めかけた時。 思いがけぬほどあっさりと腕を解いた大石は、いつもの優しい表情で微笑んだ。 それに見惚れているうちに、唇を塞がれていた。 「……んっ……」 柔らかくて気持ちいい、大石とのキス。他のキスなんて知らないけれど、多分大石とでなければこんな幸せな気持ちにはなれないだろうと手塚は思う。 好きな人とするキスだから、こんなに気持ちいいのだ。 軽く何度も啄まれ、無意識に求めて薄く唇を開く。隙間から入り込んできた大石の舌へ、自分から舌を絡ませる。 あの頃には知りもしなかったキス。 頬に添えられた手のひらが、温かい。うっとりと目を閉じてキスに酔う手塚を、大石は愛しげに目を細めて見つめる。 すっかり全身から力が抜けて縋りついてきた手塚の唇を解放した大石は、再びその耳元へ唇を寄せた。 「………あの頃のお前も、すごく可愛かったけど。今のお前は、それよりもっと可愛いよ」 甘く囁く大石に、真っ赤になった手塚は、今度こそ大石の腕から逃れて彼を睨みつけた。 「余計なこと、言うな」 もちろん、耳どころか首筋まで赤くなっていては凄んでも効果はなく、大石は逆に、その可愛らしさにまた笑ってしまったのだった。
12345HITオメデトウございます、しゅう子さま。 |